昭和45年 島根県邑智郡石見町(現:邑南町)に生まれる

実家の写真(秘境の地です)
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[邑南町のホームページ]
かつてNHK特集「寺が消える」で過疎問題が報道されたのが舞台が邑智郡であった。交通の便も悪く、産業も無い。しかし、目の前に展開される石見町の自然の美しさは、人間の営みなど関係なく、変わらず存在している。
おやつなんていらない。学校帰りの道ばたに、野いちごやあけびなど無尽蔵に実をつけている。
猿が荒らす畑、猪が稲をなぎ倒す田んぼ、ひいじいさんはマムシに噛まれて死んだ。しかしそんな石見町が、私はとても大好きである。
さて、 なんでも我が家は、太田道灌を祖先とするらしい。
長州征伐で浜田の戦いに参加した太田多吉郎氏が残した古文書によると、
太田道灌の孫である太田道杉入道が、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍して帰国後、
先祖の菩提と弔うために各地を回り、この石見の地に住み着いたということらしい。
実家の近くには太田道杉入道の墓があると、亡くなった祖母から確かに教えられた。
真偽の程は、よく分からないが、太田道灌公が先祖とは、何とも光栄なことである。
いつも、東京国際フォーラムにある太田道灌銅像の前に立つと、
胸に込み上げてくるものがあるのだ。 絵心が芽生えたのはいつだったろう。保育園時代に日本地図を書く子供だと話題になったことがあるが、たぶん、そのころだったろう。
以来、小学生のころより学校の教科書はスケッチブックと化した。
特に分厚い国語の教科書は、パラパラまんがに最適だ。
将来は『マンガ家』を目指した。夢があった。
しかし「食べてゆけないよ」の先生の言葉で断念。でもそれは正しいと思う。
そこで「等高線が書ける仕事をしたい」と、地学を志し、石見町を離れて名古屋の大学へ。
農家生まれで米に不自由しない下宿生活。両親に感謝してます。
おにぎり持参でおかずだけ学食で頼むのは自分だけだったか?
学食のおばちゃんに名前を覚えられたもんだ。 さすがに、持参のご飯にカレールーはかけてもらえなかった。
Macとの出会いは大学の研究室だった。マウスでお絵書きして楽しんだものだ。
休憩所で米を炊いてねぐらとした。
ビーカーでオレンジ寒天を作って食べた。さすがに研究題材が「ビブリオ菌」だったがで、腹を壊さないのが不思議だったが。
この研究室時代、恩師・今栄教授が突然亡くなられた。人の死とは、こんなにもあっけないものかと、さすがに驚いた。諸行無常・老少不定の生業は、どうすることもできないのだ。
絵心再燃で、大学卒業後に美術専門学校へ行きたい旨相談した時、「いいじゃないか」と喜んで下さった教授。
こんな私を押し出してくださり、本当に感謝しております。
そして、キャラ入りの卒論発表で浮きまくった後、
アニメーション制作の専門学校へ進む。
大学卒業生進路に『アニメ専門学校』の名が光る異色の事態。
そこは脱サラで来ている奴もいたが、大卒は自分だけだった。最近は、その類いは多いらしい。
周囲は不真面目だったが、自分は超真面目に勉強した。
ネクタイをしめて受講して、目立ちまくった。 やはり専門学校はいい。真面目にやれば、実に多くのことが学べる。映画の見方を教えて下さった星子先生に感謝。
現在、映像編集の仕事と合わせ、マンガも執筆中
仏教月刊誌『ビーヤング』の「なるほど仏教ゼミナール」の連載は、もう5年を超えた
。
そのコマの中に、ついつい書いてしまう「島根県石見町」の風景。読者の方々は「なぜ、島根が舞台なのか?」と思う人もあるだろう。
愛し続ける故郷・石見町(平成16年10月に合併して邑南町に)が、そこにある限り、私の描くマンガの舞台は石見町なのだ……。
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